誰かが知りたいかもしれないジャニヲタ履歴書
いろんな人が、今の担当に行き着いた経緯を書いてるので私も便乗しよう。というブログ。
私のジャニヲタへの入り口を開けたのは父親です。
小さい頃から(今でも)テレビのチャンネル権は父親にありました。家にテレビは1台なので必然的に父親が見たい番組を家族全員が見ることになります。
当時年の約3分の2が出張だった父親は見たいテレビは全て録画してビデオでも見ていました。
主に深夜番組でそれを日曜日の昼に見るわけです。
そこから数年して、なぜか母親が1枚CDをかりてきました。ACTⅡです。母親にCDのジャケットを見せられ「誰が1番かっこいい?」と聞かれました。
私が答えたのは「国分太一」でした。
ここからジャニヲタ人生がはじまりました。
初めて買ったCDは「ファンタスティポ」です。
しかしTOKIOにどっぷり、というわけではありませんでした。
私が次に好きになったのは「伊東健くん」
それを不憫に思ったのか母親がまたCDを借りてきてくれました。それが「music mind」です。そこから茶の間ではあるけれど三宅健が出ている番組を全て録画して確認する日常がはじまりました。
「担当」を名乗り出したのはいつかわからないけれど、1番最初の担当は三宅健でした。
現在を知ると当然過去を知りたくなり、ネットで過去の動画を漁ることになります。そこで少クラを知り、うちがBS入ることを確認し、少クラを見ることになりました。また、同時期にYa-ya-yahを見ていました。同い年くらいの子たちがテレビに映ってることが新鮮で、録画したビデオを擦り切れるほど見てた記憶があります。このときは鮎川くんと伊野尾くんが好きでした。
じゃんぷがデビューしたとき、1番好きだった鮎川くんがいないことがショックで、というかYa-ya-yahが全員デビューしなかったという事実が嫌で嫌で、でも別に太陽担とかじゃなかったからまだ傷は浅かったのかもしれないけど、少クラでじゃんぷと翔央が別行動取ってるのが嫌で見なくなりました。
そこからちょっと間があいて、はじめてのコンサートに行ったり(V6)とかはあったんだけどなぜか少し熱が冷めてきたときに出会ったのが
関西ジャニーズJr.
でした。
B.B.V全盛期。
わたしは2つ目のBのグループの人を好きになりました。名前は一応伏せます。
高校生になり、はじめて遠征というものをしました。うちわ作って、新幹線乗って(1人で)、現地で友達と合流して一緒に松竹座へ。
全てが新鮮で楽しくて、わたしは一生この人についていくんだ!デビューするまで見守るんだ!と思って東京に帰ってきて、次の現場を楽しみに学校行ってバイトして、という日々を送っていたら、わたしの次の現場に彼はいませんでした。
ニュースを見たときは信じられなくて、同姓同名っしょーと思ってたんですけど。
まあそれはしょうがないこととして。
退所によってわたしは強制的に担降りさせられたことになります。
なかなか立ち直れなかったけど、2011年は色々ありすぎてなぜか三宅担をまた名乗るようになりました。
現場があったのが1番大きいかな。コンサートはやっぱり楽しくて。
その年は良かったけど次の年、2012年は何もなくて、それでも何か現場に行きたかったわたしが選んだのがPLAYZONEでした。
JR.Aのことは知っていたから、JR.Aとあとの5人は別のグループなんだろうなってくらいの認識でした。
プレゾンが楽しくて楽しくて、いつのまにかプレゾンカンパニー大好き!って言い出してました。それでも三宅担は辞めなかったです。そこから毎年プレゾンに通い始めます。
2014年にプレゾンと三宅くんの舞台がありました。三宅くんの舞台が終わったとき、なぜかわたしは「あ、終わった」と思いました。
前までは「プレゾンカンパニーは梶山くんがいちおしー」とか言いながら誰を追うでもなく楽しんでいたプレゾンだったけどその年のプレゾンはほんとに梶山朝日ロックオンで。他の人が何やってたかほぼわからず(笑)
すっと三宅担を名乗らなくなり、梶山くんにたどり着きました。そう。ど新規!そして今に至ります。
わりとふらふらしてたけど今は落ち着きました。関西も今でも大好きです。
トラジャ兄組は箱推し!ってなってますけど。担当はひとりだけになりました。
担当を名乗ってた人たちは未だにずっとこれからも大好きです。